今朝のtwitter、私のTL(タイムライン)に「介護に、「頑張らない介護」は存在しな い。家族なり、介護士なり、誰かが頑張ってないと介護できない。その人に費やされる最小限のマンパワーは、1を超えてるからだ。」という呟きが流れてきました。
う~ん、ちょっと違うような気がします。
以前、「私が目指す「介護」とは・・・」という記事で、「私は介護に負けません!「頑張らない介護」を実践しているからです。」と書きました。今でも、その考えに変わりはありません。
まず、「頑張らない介護」を勧められているのは誰か?という辺りから考えて欲しいんです。
職業として介護に当たる介護職であれば、職務として与えられた仕事をキッチリと行うのは当然ですから「頑張らない介護」などという意識を持つのはもってのほか。手を抜くことなく、勤務時間中は「介護」に没頭してください。しかし、自分の分担でない仕事まで“頑張る”必要はありません。そんなことに意識や労力を費やしていたのでは、自分に与えられた仕事がおろそかになってしまうからです。ただし、自分自身の価値を向上させるためには“頑張る”べきでしょう。その「頑張り」をするのは勤務時間外です。自分の時間を休養や娯楽に当てるのも自由ですし、自己研鑽のために使うのも自由です。自分自身の価値観で判断すればいいだけのことです。
しかし、介護家族は違いますね。休暇どころか、1日24時間、1年365日、介護から離れることができないのです。だからこそ「頑張らない介護」が必要だと言われているのです。介護家族が「頑張らない介護」をするために(対価を支払ってまで)介護職に委ねるのです。極論すれば、介護サービスを利用するのは「介護家族が自分の時間を作るため」以外の何者でもないのです。
財産が豊潤にある方なら、(実質的な介護の)全てを介護サービスに委ねるのもありでしょう。(心の問題としては、ちょっと引っかかる点もありますけれど・・・)
ただ、多くの家庭は、介護に掛けられる費用が限られていることもあり、介護サービスを頼りながらも、できる限りのことは家族で(在宅)介護していこうとしているのです。
そこまでは、間違っていないと思うのですが、「できる限り~」が「頑張りすぎる介護」になっていることにも気づきましょう。
これまで、数多くの介護家族の方々と話をしてきましたが、“介護”に懸命になりすぎて、周囲が見えなくなっている人が少なくないようです。
まだ、直る見込みのある怪我や病気の介護では「頑張りすぎる介護」はあまり見かけないのですが、不治の病や老人介護の世界では、(介護者が)「(死後、)後悔したくない」という気持ちから、(今のうちに)やれることは何でもやってあげよう、という気持ちが強いのか、「介護に頑張りすぎている」人が多くなるのでしょう。
介護している自分を、第三者的な目で観察してみると、意外な盲点に気づくことも多いし、それで介護を楽にする方法が見えてくることはありますよね。それが「頑張らない介護」だと 思います。
とくに在宅介護は年中無休24時間休みなしのコンビニ状態ですから、頑張りすぎると介護者の方が先に倒れてしまいます。
いつまで続くかわからない介護、終わるのは一つの命が消える時・・・という悲しい未来しかない介護では、ゴールに到達したときに後悔しないことを目指すしかないのです。
頑張りすぎて途中で棄権するようでは後悔を残します。それを防ぐためにも「頑張りすぎない」ことが大切だと思うのです。
介護では、何も知らない外野の雑音に振り回されることも多いのですが、そんなものも気にしてはいけません。
介護者自身が納得できる、そして長丁場に耐えられる工夫をする介護、それが「頑張らない介護」だと思っています。
と言うわけで、「頑張らない介護」のヒントを書いてみることにします。
まずは、介護対象主体で考え過ぎないこと。
本人にとって快適な生活、楽しい生活を考えてあげるのはいいのですが、自分を犠牲にしてまでしてあげなければいけないことなのでしょうか?
人生という大舞台の最終章にいる被介護者にとって、健常時に準じたメリハリのある生活がいいとは限りません。苦痛がなく穏やかな時の流れを感じているだけで十分なこともあります。何もせずボーッとしているからと言って、必ずしも活性化を図らなくてもいいのです。
そのためには、被介護者本人の活性化に繋がらなくても、介護者側の負担を少しでも減らすために、身体機能の低下を最小限に留める「後ろ向きのリハビリ」もあっていいと思います。
例えば、介護施設でよく見かける歩くことのできる方への「転倒事故防止のための車いす」なども、場合によってはありだと思います。とくに認知症では、徘徊のリスクが高いままよりは、掴まり歩きか車いす移動ぐらいになってくれた方が拘束せずに済むので、歩行訓練などはさせない方がいいとさえ思うのです。
さらに言えば、無理だと思ったら在宅介護を続ける必要もありません。介護者が壊れてしまうぐらいなら、施設に入所してもらい、頻繁に訪問したり、外出させたりしてあげればいいのです。
そして、一番重要なのが「介護家族の心」を同調させることです。
「介護生活が終わったとき、(介護者の心だけでなく)家庭まで壊れていた」というのでは悲しすぎます。
そうならないためにも、介護家族の生活を優先できる“認知症介護”の方法を考えて見てください。
余談ですが、読売新聞「発言小町」に、介護がキッカケで家庭崩壊していく話が載っています。 「年老いた母の介護!」です。また、こんなブログもあります。「人間(こころ)が壊れるとき」。
どちらも、ちょっと極端な事例ですが、在宅介護生活を続けてきたことで、介護者自身の家庭を壊してしまうのでは元も子もありません。そんな生活を続けるぐらいなら、介護放棄をした方がマシかもしれない…。
介護では家族全員の心が同期していることが重要だと教えて貰ったトピでした。
・介護者は名役者になろう
これは、認知症介護におけるヒントです。以前、「“認知症”介護では嘘も方便!」という記事を書きましたが、「嘘をつく」と考えてはいけないのです。介護者側が「嘘をついている」という意識を持っていると、人生経験豊富な(認知症)老人は、簡単に“嘘”を見破ってしまうからです。嘘と考えず、一緒に芝居をしているつもりになってください。認知症介護では、「役者になること」が介護を楽にする方法の一つです。誘導の際にも、いろいろ理由付けして小芝居を打つことは多いわけですが、最大の大舞台は観客(“避” 介護親族)を相手に大立ち回りすることでしょう。
介護の邪魔をされるぐらいなら、押しつけるぐらいの意識でいいのです。これがクライマックスですよ。名優目指して頑張ってください!(ここだけは「ガンバレ!」と言います)
・認知症と介護の問題を理性で理解しよう
以前「介護疲れしない認知症介護のために・・・」という記事を書きました。
認知症介護で疲れ切ってしまわないための心構えです。家族愛で接している人には辛いかもしれませんが、ある程度割り切って考えなければ、介護は続かないのです。介護は快互、介護者も快適でなければ続けることなどできっこないのです。
そのためにも「“認知症”介護」を理解していない人の言葉に振り回されてはいけません。直接介護に関わらない家族・親族、友人・知人はもちろん、介護職でさえ理解していない人は多いのです。下記も参考にしてみてください。
「認知症“介護”を理解していない「介護職」・・・」
「「介護職」は“専門職”なんかじゃない!」
「介護職のための「認知症」対応術」
「“避” 介護親族に贈る言葉 「手を出さぬなら、口も出すな!」」
「「終の棲家」を考える・・・」
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