実父の認知症とつきあい始めて5年以上の歳月が過ぎました。その間に、義父母の(認知症)介護も始まり、母もその兆候を見せ始めました。一方、私の方も2級ヘルパーを取得し、介護職も経験しました。
そのおかげで、介護技術、とくに認知症介護については、それなりの知識とテクニックを身につけたと自負しています。
一方、テレビなどを見ていると、介護に関する情報も多い割に、認知症家族への心のフォローが今ひとつ足りない気がします。
そこで、私の経験を踏まえて、この辺りの話を書こうと思います。
まず、最初に「認知症」ですが、決して「痴呆」ではありません。馬鹿になる/知恵が無くなる訳ではないのです。
本人の“心”は変わらないのですが、目や耳、口、手足など、情報や行動の出入り口と“心”を繋ぐ回路が迷走しているだけなのです。最初のうちは、いくつかの道路が分断されたりするだけですし、迂回路ができることで解決できていますが、迂回路が増えてくると迷宮化して、他人には“心”が見えなくなってきます。これが「認知症」です。
例えて言うならロボットを遠隔操作するのに、ロボット周辺の情報を伝えるモニターが、全く別の情報を映し出し、操作者の命令もキチンと伝わらないというような状態になってくるのです。
当初は、一部の回路だけが壊れますが、数ある迂回路を利用して、ある程度の情報は伝えられますが、故障箇所が増えてくると、迂回路を経由するごとに情報は変化し、自らの言動も“脳”が考えていることと違うものになっていく・・・。そんなイメージで考えていけばいいと思います。
そして「認知症になった」ことを認識できない家族が多いということ。
それと、介護職の方でも認知症を理解していない方が多いということにも気づきました。実際に家族として認知症介護を経験した方でないと理解は難しいのかもしれませんが、プロ(介護職)ですら気づけない人がいるぐらいですから、素人(介護家族)には難しいのも当然です。
そもそも、認知症というもの は、いきなりあるレベルに達するものではありません。もっとも、骨折で入院したりすると急速に進行することはありますし、認知症になった配偶者の世話をしているうちに本人も認知症になることはあります。
いずれにしても、通常は「最近、時々変なことを言う」「ちょっとしたことで興奮するようになった」「思い込みが強くなった」程度の段階から始まり、一進一退を繰り返しながら、徐々に進行してしていくので、毎日見ている家族は気づきにくいものです。それに、自分を育ててくれた親や愛した配偶者が認知症になったとは信じたくない気持ちもあるでしょう。
だから、おかしな言動に対しても、(家族は)「歳のせい」とか「怪我のせい」ぐらいで済まそうとするのです。最初の落とし穴はココにあります。
認知症介護では、それをしっかりと認識し、キチンと対応することが介護疲れを招かないための第一歩なのです。
まず、「診断を受けて認知症と判明するのが怖い」、「認知症として扱うことで、症状の悪化が進むのでは?」、「近所の方に知られたくない」という意識は捨てましょう。
次に、認知症と判明してからも、なんとか治す術はないかと足掻き、なるべく今まで通りの生活をさせてあげたいという思いも捨てた方が良さそうです。
実は私も、当初は「認知症の進行を少しでも遅らせたい」という意識から、痴呆扱いせず、なるべく普通に相手をすることを心がけていたのですが、問題行動も増えてくるし、どうしても小言が多くなります。その結果、自分自身にもストレスを溜め込んでいたようです。(認知症を本人に理解させようとする人もいますが、これも無意味です。たとえ、その時は理解できても、すぐに忘れてしまうのが認知症なのですから・・・)
覚えておいて欲しいのは、「認知症は病気であり、恥ずかしいものではない」ことと、「現在の医学では、(ほとんどの)認知症は直すことはできない」とい うこと、さらにアルツハイマー症やピック症など具体的な病名が付けられるものばかりではなく、「老人性認知症」としか呼べないものもあること、そして、身も蓋もない話ですが、遅かれ早かれ、認知症は発症し始めると、確実に進行するということも覚えておいてください。
ただ、認知症の進行は、単純に一方向ではなく、一進一退、三歩進んで二歩戻るという具合で、後で振り返ると「着実に進行していた」とわかる程度ということも少なくありません。また、全体的にはおかしな行動であっても、部分的には健常者以上の冴えを見せることもあります。(例えば、物隠しです。どこに隠すのか、家族には発見できないことも多いですね)
また、足腰を痛めたり、入院するなどの大きな変化があると、一気に進行することもあります。いずれにしても、現在の医学では直すことのできない病気であり、いずれ人格も崩壊していくことは間違いありません。
しかし、認知症が進行することは必ずしも悪いことではないのです。
初期段階では、“マトモ”な時もあるし、本人もいろいろ考えるので、問題行動への対処にも屈辱感や不安感から葛藤を起こし、それが介護家族との衝突を起こします。家族の側も介護初心者ということもあり、どう対応していいのか判らず、悩んでしまうのですが・・・
初期段階を過ぎ、ある程度進行して短期記憶が低下すると、多少は穏やかになってきます。自分が惚けたことも判らなくなるし、葛藤することも少なくなるのでしょう。様々な意欲も減退してくるので、介護する立場から考えれば扱いやすくなってきます。
それに、数分前のことも覚えていられなくなれば、どんなに誘導に失敗しても、すぐにやり直せる訳ですから、成功するまで様々な手段を試すこともできますよね。
つまり、認知症が進むことで、初期よりも扱いやすい状態になってくれるので、介護は楽になってくるのです。
しかし、その一方で、問題行動への対策は早め早めに準備しておくことも心がけましょう。
徘徊なども、ある日突然に起こすものです。その時に不幸な事故に遭われては後悔しか残りません。事前に準備しておいたにも関わらず、そのような事態になってしまったのなら諦めもつきやすいでしょう。しかし、甘く考えていて事故を起こされたら後悔しても足りないのです。(「認知症と死生観・・・」参照)
「認知症は否定してはいけない」
この言葉、表面的に受け止めてはいけません。要するに「がっぷり四つ」に正面から取り組んではいけないということなのです。
認知症による言動に、真正面から対応するのは間違いなのです。それは表面的な言動に振り回されているということなんです。
本人の言葉の背景を考え、そこに対応しなければいけないのです。だからこそ、冷静さが必要なのです。
私は認知症を「緩やかに進む脳死」と考えることにしました。我が家のケースで言えば、実父は既に完全に妄想の世界の住民となっており、私たち家族の住む現実世界には居ないのです。
目の前にいるのは、姿形こそ人間ですが、できの悪い愛犬ぐらいの意識で接すると、気が楽になるのです。
愛犬であれば、世話をするのは当然ですし、愛情も注げますよね。過度な世話は必要ありませんが、放任することはできません。悪戯や粗相などの問題行動を起こさないよう見守りや躾は必要ですが、論理的な説明をしても無駄ですし、失敗したからといって失望はしませんよね。
これと同じ気持ちで接していけばいいのです。
それに、本物の脳死になったわけでも、実際に死亡したわけでもありません。会話もするし、感情もあります。調子のいいと時には、本人がまだ元気に活躍していた頃の話でも聞き出してみてください。認知症といっても、昔のことは良く覚えているものです。きっと目を輝かせながら、楽しかった日々の話をしてくれるでしょう。
認知症が進むことで、本人のストレスは少なくなっているはずです。その分、家族は大変な思いをするわけですが、介護を通じて家族の絆を感じることはできるはずです。
突然、親に死なれて「もっと親孝行しておけばよかった」なんて後悔するよりも、じっくりと介護しながら本当の死を迎える心の準備もさせて貰えると、前向きに考えましょう。嫌と言うほど親孝行させて貰えるんですから、亡くなったときに後悔しなくて済みますよね。
だからこそ、「淡々と・・・淡々と・・・(しかし、優しく・・・)」なんです。
介護は頑張ってはいけないのです。ゴールの見えないマラソンのようなもの・・・。いつまで経ってもゴールどころか折り返し点すら見えてこないこともあります。
しかし、ゴールはある日突然に、目の前に現れます。
ゴールしたとき、「気持ちよく走った」という達成感が得られる走り方をしましょう。全力疾走して、途中リタイヤでも駄目ですし、力をセーブしすぎてゴールしたときに悔いが残るようでも駄目なんです。適度な走りでいつ何時ゴールが現れても後悔しないことを目指しましょう。認知症介護で大切なのは、被介護者よりも介護者の後悔を少なくすることなのです。
そう、介護では「頑張らずに、ガンバロー」が合い言葉です。
6月10日 追記
「“認知症”介護」を理解していない人の言葉に振り回されてはいけません。
直接介護に関わらない親族や友人・知人はもちろん、介護職でさえ理解していない人は多いのです。
下記に関連記事を載せましたので、読んでみてください。
「認知症“介護”を理解していない「介護職」・・・」
「「介護職」は“専門職”なんかじゃない!」
「介護職のための「認知症」対応術」
「“避”介護親族に贈る言葉 「手を出さぬなら、口も出すな!」」
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