mixi「介護福祉ポータルコミュニティ」に立てられた「呆けても、認知症になっても皆様方は長生きしたいですか?」というトピックが物議を醸してます。
トピックを立てたのは、若い介護職の男性。そして、(介護職から)「死にたい」とか「人に迷惑を掛けてまで生きたくない」というコメントが続く中に、「施設の世話にはなりたくない」「(公の場である)コミュニティでこんな質問をする人には介護して欲しくない」という現役介護家族のコメントも。さらに、「介護家族の気持ちを考えたら、このトピックを立てること自体が間違いだ」と言う介護職も出てきて、バトルになってきました。
いつもなら、「また、馬鹿な介護職が・・・」とスルーするところなのですが、読んでいてどうも引っかかることがありました。
それは「認知症になる」ということを本当に理解しているのだろうかという点でした。
「“認知症”介護を理解していない「介護職」・・・」や「介護職のための「認知症」対応術」でも書いていますが、認知症患者や介護家族の心の葛藤を理解しているとは思えません。
と言うわけで、コメントしてしまいました。(^^;)
そもそも認知症は、ある日突然になるものでもなければ、一気に何もわからなくなるというものではありませんから、「認知症になっても長生きしたいか?」という質問に対する私の答えは「自身が認知症になり始めたかもしれないと感じた時点で、進行を食い止めようと足掻く」です。ただ、「死にたい」とか「死んだ方がマシ」とは考えません。つまり、 「長生きしたい」なのですが、でも、いずれ思考力や判断力は低下して、「そんなことは考えなくなる」ですね。
ですから、この質問自体に意味があるとは思えません。しかし、死生観を考えるためのテーマとしては悪くないとは思いました。
ただ、それを考えるなら、もっと理性的に語るべきでしょう。
少なくとも、バトルや皮肉を書くのは、意味がない・・・。いや、それこそ、介護家族目線で見れば、「こんな連中に介護させられない/されたくない」としか思えないのです。
しかし、その一方で認知症が進行した後の死に方については考えたいですね。
「「頑張らない介護」とは・・・」や「介護疲れしない認知症介護のために・・・」に書いたように、介護家族のことも考えてあげたい。介護で苦労は掛けたくないが、かといって、介護もさせずに後悔させたくもありません。
(その点、今の介護生活に悔いはありません。たしかにできればせずに済ませたいほど大変なことではありますが、今後、実父母・義父母の誰が亡くなっても、「十分な親孝行はした。後悔はない」と胸を張って言えると思います)
ここで思い出したのが、今年の正月に読んだ以下の記事でした。
5日午前7時5分ごろ、香川県丸亀市昭和町の今治造船丸亀事業本部の駐車場で、両腕と右脚のない女性の遺体があるのを、出勤してきた下請け会社の男性社員(19)が発見、110番通報した。丸亀署は、女性は昨年末から行方不明になっていた同市前塩屋町の無職(86)と確認した。
司法解剖の結果、死因は凍死とみられることが判明。県警は死後に動物が遺体を傷つけたとみて調べている。
県警によると、昨年12月30日午前、駐車場内を歩くこの女性に近くの会社従業員が話し掛け、出口を教えた。迷っていた可能性があるという。一方、監視カメラには複数の野犬が写ることがあった。遺体は両腕が肩から、右脚は太ももからなくなり、上半身が裸で、うつぶせの状態で見つかった。人為的な傷は見当たらず、現場に血だまりは残っていなかった。近くではこの女性のものとみられる衣服や脚の骨なども発見された。
女性は1人暮らし。自宅と現場は約1.3キロ離れている。女性は散歩が好きで、よく1人で出歩き、数キロ離れた隣町まで歩くこともあったという。家族が12月30日夜に家出人捜索願を出していた。県警は不明後の足取り捜査や、まだ見つかっていない遺体の一部の捜索などを続けるが、遺体や現場の状況などから事件性は薄いとみている。
今治造船によると、同社は12月28日が仕事納めで、5日が仕事始め。この間、6カ所ある駐車場の出入り口のうち、5カ所は施錠されていた。
現場はJR丸亀駅から西に約2キロの埋め立て地で、海に面し工場などが立地している。(香川ニュース 2010.1.6 09:55)
記事中には「散歩が好き」と書いてありましたが、おそらく認知症による徘徊でしょう。徘徊の末に、凍死し、野犬に手足を食いちぎられたのだと思います。
この記事を読んで、凄く残念に思いました。私が思うのは、このような死に方はしたくないということ。家族にも悔いが残るでしょうし、五体満足のまま逝くことができないことが悲しい…。
こんな亡くなり方をするぐらいなら…という気持ちは判らないではありませんが、だからといって「認知症になってまで生きているぐらいなら死んだ方がマシ」とは考えません。
施設でも在宅でもいいけれど、あまり家族に迷惑を掛けることなく、静かに余生を過ごしたい。 そして、“死”への恐怖を感じることもなく、五体満足なまま、静かにフェードアウトしていきたい。 それが、当事者としての気持ちです。
そして、介護家族や介護職の役割は、肉体に“死”が訪れる日まで“安全”と(人間としての)“尊厳”を確保すること、そして介護家族が後悔することなく見送ることができること、それで十分だと考えます。
今春、近所の認知症独居老女が亡くなりました。朝、近所に住む兄弟が家の中に倒れていた本人を発見したそうです。死因はくも膜下出血。徘徊のリスクがありましたし、近所には交通量の多い国道もありますから、事故死でなかったのが不幸中の幸いだと思いました。
誰にも看取られることのない“死”だったとはいえ、ほとんど苦しむこともなく、短時間で逝ってしまったことは、ある意味、幸せな“死”だったのではないかと思います。
ご兄弟も、「やむを得ない“死”」と割り切って考えることができたようですし、前日まで精一杯の介護をしてこれたのですから・・・。
家族が「十分な世話をしてあげられた。悔いはない。お疲れ様」と言える看取りをして貰えるなら、認知症になって生きることも悪くないと思います。
もちろん、家族に迷惑を掛けたいとは思いませんから(本人としては)ピンピンコロリ(PPK)がベストかもしれませんが、家族にとっては必ずしも悔いが残らないわけではありません。
(余談ですが、私は「ピンピンコロリ運動」を勧めているわけではありません。健康な状態なら、少しでも長生きしたいと思うからです。強いて言えば、私の理想の“死”は、ろうそくが燃え尽きるように、天寿を全うしての眠るような“死”です。)
8月1日 追記
当該mixiコミュニティに対して、コメントを書くべきかどうかは迷ったのですが、やはり、どうしても放置しきれなかったので、コメントしてしまいました。(^^;) ここに書いたものの抜粋的な内容です。
案の定、(馬鹿な)常連からのコメントが付きましたが、これは放置。相手にするだけ無駄です。(笑)
ただ、いろいろ感じてくれた方はあったようです。頓珍漢なコメントを付けているお馬鹿さんはともかく、何人かでも理解して貰えたようですし、トピックの流れは変わりました。それで十分です。
これは最初の質問の中に二つの異なった判断材料があったからこういう事になったんでしょうね。
・自分が自分でなくなる恐怖にあなたは耐えられるか?
というのが一つで、これに関してはたぶん個々人のパーソナリティの問題ですからバトルになるようなこともないでしょうし、たぶんトピ主が聞きたかったのはここなんでしょう。
この点については、実は認知症に限らず全盲や下半身不随など、健常者でなくなることが人生の終わりと感じる人も多いわけで、トピ主の質問の仕方次第で多くの意見が披露され、新たな支店を開くことが出来た可能性もあったんじゃないでしょうか。
・健常ではなくなり、家族の世話になるようになる前に自分で何とかしないのか?
もう一つの提起はこれで、こうはっきり書いてしまうと誰もが「それはないだろう」という結論にたどり着く話しです。
「不運な交通事故にあって全身麻痺。人生真っ暗だから死にたい」はあるでしょうが、「家族のために自殺を考えるべき」とは誰も言えないでしょう。しかし今論じられている問題が何なのかを分析せずになんとなく考えれば、それもありという話しに近づく人も多いとは思いますが、それを公にこ公表してしまえる度胸は凄いなとは思います。
だって、そんなこと恋人に言ったら即フラレますよ(^_^;)。「おまえも自分にとって都合が悪い存在になったら自分から消えろよ」といってるも同然ですからね。
投稿情報: ジャッキー山川 | 2010/08/02 15:33