今日のテーマは、以前から考えていたことの一つ、「終の棲家」についてです。
年齢などに関わらず、誰しも人生を終えるその日まで「自分自身の家」で暮らしたいと考えます。
さすがに、実際には最後は病院でということは多いでしょうが、それも治療が目的であり、症状が落ち着けば自宅に戻る前提でいることは言うまでもありません。
しかし、加齢により様々な疾病が出てきて、自分自身の身体も思い通りに動かせなくなったり、認知症を患うなどの理由により、誰かの介助を受けなければ、生活できない状況になった場合は、介護施設への入所も考えなければならないでしょう。
ところで、以前、「鳩山首相の母は「高級“姥捨て山”」暮らし・・・」という記事を書きました。
その中で、「どんなに立派な高齢者施設であって自宅ではない。下着だけで歩き回ることもできない所詮は「他人と共同生活をする“施設”」でしかない。可能な限り、旅立ちの日まで、住み慣れた“我が家”で暮らしたいと願うのは当然だろう」という主旨のことを書いています。
その一方で、「自宅で生活を続けることが困難なケースに於いては介護施設への入所の方がいい」とも書きました。
家族の気持ちも同じです。できることなら最後の日まで自宅で過ごして貰いたい・・・とは思っているのです。
しかし、介護家族が不在な時間帯が多いなど、自宅では本人の安全で快適な生活を確保できないと思えば、介護施設への入所を考えざるを得ないのです。
ここで問題となるのが、介護施設に対する本人や家族の意識です。
以前、私はデイサービスのことを「幼痴園」と書きました。実際に介護に関わったことのない人の目には、デイサービスで行っているリハレク(リハビリ・レクリエーション)が、幼稚園でのお遊びのように見えるからです。
この意識が通所拒否にも繋がるわけですが、入所施設に対しても同じように「刑務所」や「姥捨て山」のイメージを持つ老人や介護家族は少なくありません。(もっとも、たしかに「刑務所」の方がマシと思えるような施設もありますが・・・)
この後ろめたい意識は、やむを得ず老親を入居施設に預けるという選択をした介護家族にとって心の重しになっていきます。
実際、老親を騙すようにして連れて行き、別れの挨拶をすることもなく、本人が気づかない間にそっと帰宅するというパターンも多く、余計に「姥捨て山」感覚を持たせてしまうのでしょうね。
mixiで介護家族として知り合ったある方は、(実家に独居する)認知症の母親を「見守りカメラ」で見守りながら在宅介護を続けてきたのですが、「要介護5」となり、限界を感じ、ついに施設入所を決めたそうです。
入所の準備のために衣類や持ち物に名前を付けたりしながら涙したそうです。
その気持ちはよくわかります。
どんなに立派で綺麗な施設ではあっても「老健」や「特養ホーム」は自宅ではありません。あくまでも共同生活の場です。
下着のまま彷徨くこともできなければ、起床時間や就寝時間、食事時間なども一定のルールの下で規則的に行わなければならないし、食品類の持ち込みや一人での外出ができない点などは、同じ共同生活の場であっても独身寮のような自由度の高い環境ではなく、どちらかというと収容所に近い訳で、健康な人ならとても耐えられない場所であることは間違いないでしょう。
それに、老人介護施設は「終の棲家」であり、入居することはあっても(基本的に)退去することはありません。
入所待ちするということが、実質的には「現在の入居者の死を待つ」こととイコールであることも、入所させる介護家族の気持ちを重くしてしまう要素の一つなのだと思います。
しかし、実際には老人介護施設は収容所ではありません。職員の都合がつけば外出だって可能ですし、家族が連れ出すことには制限もありません。友人や知人が訪問することなども自由なのです。
食品類の持ち込みや一人での外出が制限されるのは、(本人や他の入居者の)安全のためであり、介護という観点からのやむを得ない事情なのです。(利用料金が高額な有料老人ホームなら、一人一人の入居者に専属の介護者を付けることもできると思いますから、自由度は高くできるはずです)
また、入所待ちについても、新しい施設ができたときにそちらに移る人もいますし、年齢や状況を考えれば、亡くなることも必ずしも不幸だとは言い切れないと思うのです。
その介護施設がいい施設なら、いい想い出を抱えたまま、動きが不自由な肉体から離れ、痛みも苦しみもない、自由な世界に行けるのですから・・・。
私は、老人介護施設を「姥捨て山」ではなく「竜宮城」だと考えることにしました。
火事や転倒の危険もあり、トイレや入浴も大変な俗世(自宅)を離れ、安全で十分に尽くして貰える「竜宮城」で、世間の時の流れと違う快適な時間を過ごして貰う。そして、穏やかな生活に疲れたら、「竜宮城」に来ることを待っている次の人のために、玉手箱を開け、来世へと旅立つのです。
私が特養ホームに勤めていた頃、何人かの方を見送りました。皆さん、私と出会ったことを喜んでくれましたし、いい想い出を作ることができたと信じています。 (「千の風になったM子さん」参照)
一人の旅立ちは、新たな一人との出会いを生みます。そして、疲れた介護家族を一組減らしてくれるのです。だから、不幸なことではありません。みんな順番です。
在宅介護での疲れを癒してからで十分です。時々施設を訪れ、たくさんの想い出を作ってあげることが大切なのです。
ですから、老人介護施設への入所を否定的に考えないでください。介護家族も罪悪感を持たないでください。
長年住み慣れた自宅から共同生活の場への引っ越しでしかないのです。戸建てからマンションに転居するようなものです。
入所後も介護家族の接し方次第で、「姥捨て山」を「竜宮城」に変えることもできるのですから・・・。
毎日の介護は出来なくても、時々面会に訪れ、外に連れ出す(逆デイサービス?)、自宅に宿泊させる(逆ショートステイ?)など、(介護疲れを癒すことで)在宅時以上に優しく接することはできますよね。
介護に疲れた顔で接するのではなく、(日常的な介護から解放された)家族が明るい笑顔で接すること。それが「竜宮城」の良さなのです。
「終の棲家」での生活を悲しいものにしては、残される人間の心にも悔いは残ります。
私が勤めていた特養ホームでは、数組の家族が、毎週末訪れていました。
入所するお婆ちゃんと一緒にお弁当を広げ、1~2時間団欒して帰るだけですが、ご本人もご家族も笑顔で過ごすひとときはまさに竜宮城だったのではないかと思います。
また、ある利用者(100歳:男性)は、奥様(95歳)が併設するデイサービスに週1回通っているので、その日は一緒にデイサービスで過ごすのを楽しみにしていました。
毎日顔を合わせていれば、お互いに不満や愚痴も出てくるのでしょうが、週に一度ということで、双方とも笑顔で接することができる。これも一つの幸せのパターンだと思います。
ですから、入所させることは必ずしも悪いことではないのです。
「有終の美を飾る」という言葉や「終わりよければすべてよし」という言葉がありますが、「終の棲家」での暮らしだからこそ可能な笑顔もあります。それを考えてみませんか?
(続く…)
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